アナログゲーム昔語り

TRPGに関する歴史認識のズレ

 TRPGの熱心なファンと話をしていると、ときおり歴史認識のズレを感じることがあります。

 いやまあ、ズレを感じるポイントは、実は結構いろいろあるのだけど。
 とくに感じるのが、「TRPGはいつごろ衰退したのか」についてです。

   ★

 どうも一般ユーザーのみなさんからすると、TRPGが衰退したのは20世紀もどんづまりの頃、1998年とか1999年とかになってからのことだと思ってる人が(意外にも)多いのですね。1995年、1996年くらいは、まだまだ流行っていたよ、と。
 その頃はサークルにもたくさんの人が出入りしていたし、新人さんも結構入ってきてたし、洋ゲーや古典ゲーなどいろんなゲームが同時にいくつも立卓できていたし、選択の幅もあって、活況を呈していたよと言う。
 こういう思い出を懐かしげに語る人はたくさんいます。
 つまり、20世紀の間は、TRPGは少なくとも俺の周りでは流行っていたよ、と。

   ★

 が。
 作っている方にしてみると、TRPGはそれよりもっと早い時期、遅くとも1993年にははっきりと停滞がはじまっていたし、1994年にはブーム衰退が明らかになっていました。
 いわゆる最盛期は1991年か1992頃で、そこを頂点にTRPG関連商品の売り上げはどんどん日増しに下がっていった、という印象です。
 実際、その頃まではボックスタイプの5000円くらいするゲームが何万個も売れていたし(いや、ホントなんだってば)、文庫タイプの書籍型ルールブックだと、それよりゼロが1個多い感じでした。
 それが1994年頃にはすでに「ボックスで1万個売るのは、きょうび、ものすごく難しいね」という話になっていました。
 書籍タイプでも苦戦を強いられるようになっており、一部の人気ある文庫ゲームをのぞき、初版部数が1万部を切る時代になりつつありました。このへんは問屋さんやショップさんがボヤいていたのも耳にしましたし、会社の企画会議でも連日そんな話をしていましたね。
 1993年には、国産初のTRPGを世に送り出したメーカーである業界大手のツクダホビーさんが、TRPGをはじめとするアナログゲーム全般から撤退し、一つの時代が終わったことを感じさせられました。
 TRPGの専門雑誌も1993年頃からぽつぽつ休刊をはじめ、1997年末には一部ゲームショップにのみ置かれていた『ゲーマーズフィール ド』(当時はFEARさんのファンクラブ会報だったと記憶しています)をのぞけば、一般書店にはTRPG「も」あつかっている雑誌が1冊あるだけ、という 状況でした。
 ついには、いろいろと予定されていた新作タイトルも発売が無期延期になっていき、いわゆる「TRPG冬の時代」に突入したことを、誰もが実感せずにはいられなくなりました。

   ★

 ……というのが、坂東の歴史認識なのですが。
 ところどころ記憶違いはあるかもですが、たぶんそんなに史実とズレてないと思います。

 で、上で挙げたユーザーさんたちの認識と比べると、だいたい3年~5年前後、あるいはそれ以上のズレが発生しているわけですね。

 これはなぜなのか?

   ★

 1991年といえば、バブル崩壊の年です。
 最初は一般には無縁の現象だと思われていたのが、次第に一般にも波及してきて、1993年には「不況」という言葉が一般化します。そのうち「どうもこの不況は長引きそうだ」という話になってきて、ユーザーさんのお財布のヒモはどんどん硬く締まっていったはず。
 また、1995年頃から日本でも「マジック・ザ・ギャザリング」をはじめとするTCGブームが巻き起こり、アナログゲーマーたちがこぞってそっちに流れていったという経緯もあります。
(これらの流れはPBM界も直撃するのですが、それはまた別のお話)

 一方、1999年といえば、シーン制マスタリングやプレイヤーハンドアウト、ユーザーの手持ちリソースによる物語への強制介入が可能といったおなじみのシステム……いわゆる「FEARゲー」の概念が確立した時期です。
 なおかつ、『魔獣の絆』(しかも小学館からTRPGが出たという地味な快挙!)の、この時期としては驚異的な売り上げにより、「ああ、商業 TRPGってまだイケるんだ」という認識が再び業界に生まれ、翌年2000年からの新作ラッシュによって、今日に至るTRPG再ブームへの端緒となった年 でもあります。
 とはいえ、本格的に「またブームが戻ってきたな」と感じたのは、2001年くらいからだったんですがね。

   ★

 さておき。

 「1999年頃は、まだTRPGは元気だった」という認識は、この1999年のTRPG第二次ブームとでもいうべき流れを受けて、記憶の中でごちゃまぜになって生まれたものかも知れません。
 ただ、この解釈だと、「1994年から1998年にかけても元気よかったよ?」という歴史認識を生み出す理由にはならんわけですが。

 あるいは、TRPGという特殊なゲーム環境が生み出す、「俺たちの周りではまだ元気にやってるよ?」という、いわゆる俺鳥取(2ch卓上ゲーム板用語。TRPGをめぐるローカルな特殊環境を世間一般に広く通用する常識と錯覚すること)が生じていたのかも知れません。
 実際、新作が発売中止になろうが、ゲーム雑誌が廃刊しようが、好きなゲームさえ手元にあればえんえん遊び続けられる(むろん限界はありますが) のがTRPGの特長であり。これは、たとえ世間で廃れようともゲーマーはそんなのどこ吹く風で、たくましくローカルに遊び続けていたことの証左なのかも知 れません。

 坂東はなんとなく、後者の方なんじゃないかな、と思います。

 というのも、「歴史認識にズレがあるなあ」と感じるユーザーさんの大半が、よくよく話を聞いて見ると、コンベンション主体のプレイヤーさんではなく、サークル主体に活動していたプレイヤーさんなのです。
 コンベンション系の人は、ゲストとして会場にやってくるTRPGデザイナーと触れ合うチャンスも多かったろうし、もっと敏感にTRPGの停滞・衰退・再復興という流れを感じていた可能性があるのでしょう。
 サークル系の人は、世の中の風潮とは無関係に、あいかわらず仲間たちとTRPG三昧の毎日だったのかも知れません。

 また一応付記すると、この話は、かっての学生主体のサークルによる長期間にわたるキャンペーンプレイから、社会人主体のコンベンションでの一回 こっきりのカジュアルなプレイへと、TRPG全体のスタイルが変化していく流れの中での文脈ととらえるべきなのかも知れませんね。

   ★

 長々と説き起こしてしまいましたが。
 まあ、歴史認識のズレを正すのが、本稿の目的ではなく。

 ことほどさように緊密なプレイを楽しめていたのだとしたら、サークル系のプレイヤーさんたちというのは、なんとも幸せな日々を送っていたのだろうな、と、ちょっとうらやんでいる次第なのです。

| | コメント (0)

ソレ以前、ソレ以後

 今年6月のRPGイベント「大分イフコン」に参加したときのこと。
 ゲストで東京からやってきた河嶋陶一朗さんに、「坂東さんはソレ以前の人だから」みたいなことを言われたんですね。

 「ソレ」というのは、TRPG業界でいうところの、いわゆる「冬の時代」のこと。
 TRPG専門誌がバタバタと休刊し、あるいはTCG雑誌に鞍替えし、新作TRPGの発表がパッタリやんでしまった(実際には結構新作もサプリもでていたのですが、イメージとしてそうとらえられていた)時期、だいたい1996年~1998年あたりを指すようです。
 その後、TRPGは息を吹き返し、またいっとき隆盛になるのですが、まあその話はさておき。

 で、河嶋さんは、「冬の時代」にはすでにPBM業界にいたそうなんですが、本格的にTRPGに取り組むようになったのはソレ以後であり。
 「ソレ以前」と「ソレ以後」のデザイナーは、とくにインターネットの活用などの点で感覚的な部分が違う、といったことを主張されていたのが印象的でした。

 ただ、むー。
 「ソレ以前」の人と言われると、ちょっと違和感を覚えてしまうのですよね。

 たしかに、坂東がTRPGのお仕事をさせてもらうようになったのは1993年頃からで、1995年にはシステムデザインを担当したTRPG『鋼鉄の虹』を出させてもらってるので、時代区分的には「ソレ以前」の人なのかも知れないですけど。
 なんかこう、感覚的には自分は「ソレ以後」の人のような気がしているのですよね。

 というのも。

 

坂東は91年から95年まで遊演体という会社に所属していたのですが、その間、自分はTRPGデザイナーだとはあんまり思ってなかったのです。
 たしかに、もともと入社時にはTRPGの制作を希望していたのですが、入社後はむしろPBMに深く関わっていたし、TRPGにはあくまで副次的なお仕事として関わっているだけだと思っていたので。
 誤解を恐れずにいうならば、当時の坂東はTRPGというのはPBMよりも劣っていると思っていました。というより、TRPGが進化してPBMになったのだと思いこんでましたから、いまさら過去に逆行してもしょうがない、なんて考えていたのです。坂東だけでなく、当時の社内にもそういう風潮はたしかにありました。(まあ、このへんはまた機会があれば、いずれ)
 ぶっちゃけ、TRPG『鋼鉄の虹』は会社の業務として「やれ」と命じられたのでやった、という感じでした。別に嫌々ではなかったですが、格別な意気込みもなかったのは事実です。『蓬莱学園の冒険!第2版』はPBMのお仕事の一環として設定監修をしただけですし、おなじく設定やシナリオに関わった『白狼伝』は、結局発売されませんでしたしね。

 しかも、当時は社外のほかのTRPGデザイナーのみなさんとは、まるっきり親交がなく。
 JGCのようなデザイナーが集うイベントも、まだありませんでしたしね。
 当時、『ファー・ローズ・トゥ・ロード』のお仕事で、ちょくちょく遊演体の事務所にやってこられていた藤浪智之さんや、PBMのお仕事もされていた田中としひささん、金澤尚子さんらをのぞけば、外部のTRPG関係者の方々とはまるで面識がなかったのです。
 かといって、社内には有坂純さんや門倉直人さんが在籍していましたが、すでにTRPGのお仕事からは遠のいていましたし、そもそもご両名が出社していることすら稀でしたからね。
 そんなこんなで、自分のようなPBM崩れのTRPGデザイナーもどきは、世に名前の知られたスターデザイナーの先生方とは一線を画していると思っていました。

 そんな調子ですから、95年春に富士見書房さんの『MAGIUS』のイベントにゲストマスターとして出かけたときは、もうおっかなびっくりでした。
 あのときは、『MAGIUS蓬莱学園83分署』をデザインした賀東招二くん(そう、彼も若き日にはTRPGをデザインしたことがあるのですよ)が、スケジュールのバッティングだかでイベントに出られなくなり、その代役として急遽呼ばれたんですが。
 なにしろ『MAGIUS』には、当時の主立ったTRPGデザイナーがたいてい参加していましたから、会場にはそういう方々がひしめきあってるわけです。
 とたんに、自分も一応デザイナーのはしくれだなんてことは忘れて、「うわー、うわー。本物だー。うわー」とか、ただのミーハーゲーマーと化してうろたえまくっておりました。部屋の隅っこでそうしていると、怪訝な顔をした藤浪さんが「どうしました? そんなとこにいないで、こっちへどうぞ」とか誘ってくださるので、カチコチになりつつ歓談にまぜていただいたのを思い出します。
 ちょうどTRPG『鋼鉄の虹』が出る直前だったので、『RPGマガジン』でゲーム紹介コラムをもっていた朱鷺田裕介さんから、ゲーム内容についていろいろ聞かれたことは覚えているのですが、こちらはもう「うはー、セル・アーネイの朱鷺田さんだー、うわー」とか舞い上がっていたので、なにを答えたのか全然覚えてません。
 あのときは「あぁ、俺って実は、TRPGが好きだったんだなあ」といまさらながらに思い出しただけで、自分が作り手側に回っているなんてことは、ちっとも考えてなかったですね。

 そのイベントの直後くらいから、いよいよ「冬の時代」が濃厚となってきまして。TRPG『鋼鉄の虹』も(デキがヒドかったのももちろんありますが)あんまり売れず、それどころかサポート雑誌が休刊したのでフォロー記事の連載も中止となり。
 また、ほどなくして坂東も遊演体を退社したので、TRPGとはパッタリ縁がなくなりまして。
 たぶん、このまま自分は一生、お仕事としてTRPGに関わることはないんだろうな、などと思っておりました。

 でまあ、その後いろいろありまして、2000年になって急にエンターブレインさんから「蓬莱学園みたいな壮大でコミカルなハイパー学園モノがほしいんですよ。やりません?」というオファーがあって、思いがけずもTRPGの世界に戻ってくることになるわけですが。
 むしろ、このとき坂東はTRPGを自分の仕事として強く意識したんですね。

 つまり、「ソレ以前」の時代には、ギリギリかけこみで間に合ってはいるんですが、当時はぜんぜんTRPGデザイナーとしての覚悟はなく、せいぜい「見習い」程度の認識でしかなくて。
 本人としては、気分的に「ソレ以後」の人のような気がしているわけです。

 河嶋さんとの会話で感じた違和感の正体はそれだったのだなあ、といまさらながらに気がつきました。

 まあ、「おまえの作ってるモノはどれも古臭い」「センスが80年代で止まってるだろ」とは、よく言われますけどね!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鈴木銀一郎さんのこと。

 今日はひとつ、日本で最初に「ゲームデザイナー」を名乗った方、銀爺こと鈴木銀一郎さんにまつわる昔話をば。

 坂東はこうみえて、元はシミュレーションゲーマーでして。というか、昔のゲーマーはみんなウォーゲームからRPGに入ったのですけども。海軍好きの友人の家にあったバンダイの『連合艦隊』でゲーマーとして開眼しました。たしか82年のことですからリアル中2のときですね。
 なにせゲーム相手がその友人しかいなかったもんですから、いきおい海戦ゲームを中心にプレイしていたのですが、中でもお気に入りは鈴木さんデザインのエポック『日本機動部隊』でした。あの空母戦の再現度合いとギリギリまでの削ぎ落としのバランスの美学は、たまらんものがあります。索敵マーカーの「艦種誤認」とか、対空砲火時の「攻撃機のロス&照準が狂う」が同じ表でわかっちゃうとか、損害を受けた艦艇がステップロスして裏返って中破とか、小ネタのひとつひとつがもう。一体どれだけテストプレイを繰り返せば、あそこまで洗練されるのだろうかと。あんまり好きすぎて、『RPGamer』誌で紹介記事まで書かせていただいたく らいです。
 まさかその神デザイナーに後年お会いできることになろうとは、田舎の中学生ゲーマーとしては思ってもみませんでしたが。

 さて、時代は少し流れて85年。日本にもRPGの波がおしよせていました。
 当時はなにしろゲーム情報に飢えていましたから、季刊時代から『シミュレーター』誌も買っていたのですが、誌上で例の『七つの祭壇』の記事に出会ってしまいまして。あれはなんというか、大変な衝撃でした。ゲームというハードはチラホラ出そろっていたものの、いかにしてそれを遊ぶかという ソフトが圧倒的に不足していたあの時代、迷える仔羊だった我々にとって『七つの祭壇』は大いなる福音でした。「あ、やっぱりこれでいいんだ!」「うは、こんなのもアリなのか!」と。記事を書いた藤浪智之さんたちには無論のこと、当時としてはアバンギャルドすぎるあの記事を誌面に掲載する英断を下した当時の編集長・鈴木さんには、いくら感謝してもしたりないくらいです。

 その後、いろいろあってアナログゲーム業界の末席に身をおくことになった坂東ですが、あるとき(たしか96年頃)たまたま富士見書房で開催され たMAGIUSの宣伝コンベンションに、賀東招二氏の代役として、氏のデザインした『MAGIUS蓬莱学園RPG蓬莱83分署』のゲームマスターとしてゲスト参加することになりまして。(その前の晩に初めてルールブックを受け取ったというのは抜群に秘密です)
 その会場で、ほかのゲストさんたち、つまり大勢のプロのRPGデザイナーのみなさんと顔合わせさせていただくことになったのですが、そこに藤浪さんや朱鷺田裕介さん、山北篤さんといった錚々たるメンバーに混じって、鈴木銀一郎さんがいらしたのですね。
 たしか『MAGIUSモンスターメーカー学園RPG』を藤浪さんがデザインした関係で、原作者というお立場でこられていたんだと思いますが(まだ当時は鈴木さん自身はRPGにそう深く関わっておられなかったようです)、坂東としては「ギャース、本物!」と衝撃のあまりろくにご挨拶もできず。あげくに鈴木さんからイベント後の打 ち上げの席にお誘いいただいたにも関わらず、そのときはどうしても外せない別件の仕事の打ち合わせがあり、泣く泣くご辞退申し上げたりもしまして。あのと きは大変失礼いたしました。ぺこぺこ。

 その後、しばらく坂東がRPG方面から遠ざかっていたこともあり、鈴木さんともあまりお会いできる機会がなかったのですが、2001年頃から坂東がJGCなどのイベントにちょこちょこ顔を出すようになったおかげでお話できるチャンスに恵まれ。百木くんたちの『ゲームガレージスケープ』や、その後の飲み会で何度かご一緒させていただき。すっかり酔っぱらい仲……ああいや、楽しいお時間を過ごさせてもらいました。
 いつぞや明大前の沖縄料理屋で打ち上げをしたときに、たまたま隣の席にいあわせた明大生になにを勘違いされたのか「どちらの先生ですか?」と 聞かれ、酔い混じりに「日本初のゲームデザイナーの先生です」「漫画でいえば手塚治虫みたいな人」などと放言したことを覚えています。いやでも、あながち 間違ってないですよね? ね?

 坂東が福岡に引っ越してからは、お会いできるチャンスはなくなってしまったのですが(2月の大分中津のイベントではご一緒できるはずだったのですが、こちらの都合で参加できなくなり)。ぜひまたあの勇壮な飲み会の締めっぷりを拝見したいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)